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不変が息づく街、倉敷2024.04.30

ある日、私たちは街角で、地元で長く愛されている「い草」を原料にした工藝品と出会います。い草は一本ではか細い茎のようにしか見えませんが、撚り合わせて作られた縄はしなやかでとても強いものです。そのい草の縄に、街に暮らす人々の営みが撚り重なることで太く長い歴史を綴ってきた倉敷の奥深さが重なって見えました。

私たち「撚る屋」は、倉敷の美観地区にて2024年秋に開業を予定している宿です。開業を前に、あまり伝わることのない開業までの歩みを記事として残すことで、この街の魅力や私たちのことを少しでも知って頂けたらと思い、ジャーナルを書き始めることにしました。

今回のジャーナル第一弾では、まず私たちが倉敷という街をより深く知るべく、この土地にまつわる書籍に目を通し、郷土に暮らす方々からお話を伺う中で分けていただいた暖かな言葉に、私たちの想いを撚り合わせて倉敷の魅力をお伝えしたいと思います。

倉敷という地名の由来は、「倉屋敷」にあると言われています。「倉屋敷」または「蔵屋敷」とは、年貢米や特産物の保管・販売を目的とした倉庫兼家屋のことです。

倉敷は古くから北前船の中継地として栄え、江戸時代に幕府の直轄地「天領」となったことで繁栄を極めます。各地から集められた積荷や産物が川を通って運ばれ、代官所を中心に河畔に沿って立ち並んだ無数の蔵屋敷に保存・集積されました。この時代の街並みの風情を伝えるのが、現在の倉敷美観地区であり、街並みを散策するとあちこちで歴史を感じさせる建物と出会うことが出来ます。倉敷は遠い歴史が今も息づく街なのです。

倉敷に関して書かれた作品は数多いですが、その中から半世紀前に倉敷を訪れた作家司馬遼太郎のエッセイ「倉敷・生きている民芸」を紹介したいと思います。エッセイの中で司馬は、倉敷を「日本の他の街とは随分違っており、平素思いも寄らないことを呼び覚ましてくれる街である」と高く評価しています。

しかし、同じ原稿の冒頭で、司馬は実際にこの地に訪れるまで倉敷に対して偏見を持っていたことを告白します。それは、観光客向けに作られた民芸”調”の品物に対する違和感や、日本のどこへ行っても同じようなサービスが提供されている当時の観光に対する嫌悪感でした。

美観地区内の旅館に宿泊した司馬は、立派な梁が残る屋内をつぶさに観察し、「ずいぶん苦心の建築ですね」と主人に声をかけます。司馬の目には宿の古めかしい設えが、流行に合わせて揃えられた民芸”調”の作りものに見えたのです。
ところが女主人は、「そのへんのお道具も、わたくしの里のお父さまが使っていたものが多うございます」そう答えました。

それを聞いた司馬は、民芸“調”ではない…と驚き、古くから伝統がありのまま自然な姿で街の中に息づいていて、それをごく普通のこととして受け入れている、倉敷の人々の暮らしの奥ゆかしさに深い感銘を覚えました。

司馬が訪れて早半世紀、美観地区の表の喧騒から離れひやさい(倉敷の方言で細い路地のこと)を抜け、裏通りの本町、そして奥座敷の東町にまで足を進めると、今も当時と変わらない倉敷の奥ゆかしい暮らしの気配を肌で感じることができます。

「日本の他の街とは随分違っており、平素思いも寄らないことを呼び覚ましてくれる街である」司馬がそう評した倉敷の魅力は、今も倉敷に暮らす人々の手によって紡がれているのです。

撚る屋 上沼佑也、ライター 朝倉圭一

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