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暮らしが根付く町、東町2024.08.08

美観地区の中心、倉敷川のほとりから道を一本隔てた鶴形山の南嶺に広がる本町。戦国時代の末期まで、この辺りを含む岡山一帯は「吉備の穴海」と呼ばれる広大な浅瀬でした。そして、鶴形山も当時は海に浮かぶ小さな島の一つでした。鶴形山の周辺は、その時代から漁師達が暮らしており、倉敷の町の起こりの地だとも言い伝えられています。

江戸時代の干拓によって付近に土地が広がり、町が大きくなると、この辺りは早島と倉敷を結ぶ街道の要所となり、造り酒屋、お茶屋、畳屋など生活に欠かせない品物を並べる店が軒を連ねる通りになりました。現在も、白漆喰塗の虫籠窓、本瓦葺きの屋根など風情を残す建物が軒を連ねており、かつての賑わいを今に伝えています。

そんな本町と同じ街道筋にあって、明治時代に大きく栄えたのが「撚る屋」のある東町界隈です。江戸期から職人と庶民の生活の場として栄えた本町とは異なり、明治期の東町には呉服問屋が軒を連ね、素封家が自身の邸宅を構えました。そんな倉敷の東端に位置した東町は、街道を行く人々の往来でにぎわう倉敷の玄関口となったのです。

明治の頭から同地で呉服屋を営んでいた素封家の「楠戸家」と「難波家」の両家は、東町の顔として町の文化を守り伝えてきました。現在は呉服屋から形を変えながら、東町に根差した商いを続けています。

明治、大正時代にかけて栄えた東町ですが、山陽鉄道が倉敷まで延伸し、商業の中心が倉敷美観地区よりも西側の倉敷駅方面へと移ると、東町は街の表側から奥側へと位置付けが変わり、現在の閑静な町並みへと姿を変えていきます。それでもなお東町に優れた文化が残された背景には、楠戸家・難波家が大切な来賓を東町界隈で手厚く迎えてきたことも大きく影響しています。

「撚る屋」の正面には難波家の本宅があります。元は「撚る屋」の建物は、難波家の別宅として建てられたもので、呉服屋を営んでいた時代にはお得意様との商談を行う場となり、時には当時あった大きな座敷で宴が行われていたそうです。

その後、持ち主が変わり旅館になると、そこに集まった人々は旅人だけではなく、地元の方々は大切な人との食事や結婚式の二次会などで利用し、街の社交場としても長く親しまれてきました。取材の中で、当時の様子を楽しそうにお話しくださる方が大変多く、たくさんの楽しい思い出に彩られた場所であると感じました。

東町に住む方々は、ここ東町が商人と庶民が肩を寄せ合って町並みをつくりあげてきた場所だと教えてくれました。その商家と民家が並んで残された通りには、今も生き生きとした生活の気配を感じることができます。同じ美観地区でも本町と東町は異なる性格を持っていて、東町にはお店の看板ではなく表札が並ぶ、暮らしを身近に感じることができる場所なのです。温故知新、古きを訪ね新しきを知る、という言葉がこれほど似合う通りは、全国どこを探してもないように思います。

「撚る屋」では、通りに面した店先に10席ほどの小さい、酒場に近いカジュアルなバーを設ける計画です。この場所を通じて東町に足を運んだ皆様が、偶然席を隣にした近くに住む人々と語らい、この場所に特別な思い入れを見つけるきっかけとなったら、とても嬉しく思います。

撚る屋 上沼佑也、ライター 朝倉圭一

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