撚る屋について
倉敷という街の歩みは知れば知るほど複雑で、時代の変遷の中でも変わらず、ここに暮らした人々の想いが注がれている街だと感じます。江戸期に始まった干拓により浅海が土地に変わり、塩分を多く含んだその土地に適した綿やイ草が栽培されるようになり、幕府直轄地の「天領」となったことで人やモノの集散地として栄えました。また、明治期に入ると産業革命が訪れ、紡績産業が街を潤し、資本的な潤いは街の文化的な繁栄という花を開かせ、日本初の西洋美術館である「大原美術館」や日本で2番目の民藝館である「倉敷民藝館」がこの街に誕生しました。
そんな街の移り変わりを今に残しているのが美観地区であり、美観地区内にある建物は江戸時代にできたものから昭和期に完成したものまでと様々で、異なる時代の建物による調和が図られているのです。
倉敷は新と旧、工業と工芸といった、時には相反する要素たちが折衷された稀有な場所なのです。
「撚る(よる)」という言葉は、元々「組む」や「より合わせる」という意味の古語「撚(ねん)」に由来します。これは糸や髪などを撚り合わせる際に使われた言葉で、撚り合わせることで強度を増すという意味を持っています。倉敷という太く長い縄は、時の経過とともに多くの人々の想いの糸で撚り重ねられてきたものだと感じており、その中に今はまだ細く淡い糸である我々も入れていただけたら、そんな想いでおります。
撚る屋は倉敷・美観地区の東町という美観地区の入り口から少し奥へ進んだ場所に位置し、明治期に栄えた呉服屋の別邸であった伝統的建造物を譲り受け、新たに料理宿として2024年秋に開業を迎えます。また、我々が譲り受ける数年前までも宿であったとお伺いしており、地元の方々からは前の旅館さんでお食事を楽しまれた想い出をよく話していただきます。街の歩みとこの場所の歩みとこれからの撚る屋の歩みが、重なり合い新たな美しい糸に撚り合わさってゆくことを目指します。
東町町内会長の中村さんとお話をしていた時に、「我々はあの頃の人たちの未来を生きている」と仰ってくださった事を鮮明に覚えています。倉敷には代々受け継がれてきた想いが沁みこんでおり、その倉敷に恥じないよう我々も想いを注いでいきたいと思います。そして我々の今が過去となり、後の人たちの今になってゆくことを願って。
撚る屋一同